プロフィール

生まれてから高校生まで

1989年、都内で3兄弟の長男として生まれ、やんちゃな性格で幼少期を過ごしました。

また運動が好きだったこともあり、小学生からサッカークラブに所属。勉強よりも遊び、運動が好きな性格でした。

そして中学生になっても部活はサッカー部。学生生活は概ね問題なかったですが、ひょんな事から3年生の途中で学年の女子大半からいじめに遭うようになります。

そこから女性に対してや偏見や、抵抗を持ち始める….

この時は人生はなぜこんなにもつまらないんだとか、思春期特有の思考もあって、友達にも相談できずに一人で悩む日々が続きました。結構辛かった気がします。

幸い、男子との関係は全く問題なかったため、そこには救われましたね。

なんとか耐えた中学生時代。高校は絶対中学の女子が誰も行かないところに通うと決めて、念願の自由を手に入れます。

偏差値48ぐらいの公立高校だったんですが、

巷では有名なヤンキー高校だったことに衝撃を受けました。

あの頃はやっていたキッズウォーという昼ドラのような、それにギャルやギャル男要素を足したような人に囲まれた学生生活でした。

そういえば、当時はギャル文化前世期だった。ガムは校外、校内問わず落ちているし、体育の校外持久走に至っては、原付バイクで走り出す子がいたり、授業中に廊下で歌を熱唱している子がいたり、本当に漫画の世界でした。

入学してしばらくは、中学時のいじめの影響か、相変わらず、女子に対して消極的で抵抗を持ち、避けるような感じで過ごしていたんですが、

当時の高校の女子は、みんなすごくいい子たちばかり。今思うとあの環境で本当によかったなと思います。お礼を言いたいくらいのピュアな女子ばかりだった。

それがきっかけである種、リハビリになったし、徐々に女性に対しての偏見や抵抗も少なくなっていきました。

学業に関しては、一応理系で進んでいたが、頭の悪さゆえに途中で文系への転向を決めることに。

偏差値が高くない高校だったこともあり、学年内では成績は悪くなかったんですが、突出して良かった訳でもなかった。

ちなみに高校も推薦、大学も推薦で入ることになり、受験勉強もせずトントン進学することになります。

大学生まで

指定校推薦で都内のFラン大学の経済学部経済学科に入学。

この頃は、将来に対してやりたいこともなく、自分の人生について真剣に考えていませんでした。

「まぁなんとかなるだろう、先のことなんてわからない」とふわふわの大学生でした。

高校までやっていたサッカーではなく、軽音サークルに入ります。

そんな僕は、授業よりもサークルを優先するような大学生活を送っていました。

これがきっかけでその後のバンド活動をするきっかけにもなります。

大学4年になって、サークルの音楽好きの仲間でバンドを組みました。

いわゆる外バン(サークル活動だけでなく、学校外、外で活動するバンドを意味する)として、渋谷や下北などでライブを定期的に行ってオリジナルCD作って売ったりしました。

楽器のパートはドラム。

まあなぜドラムになったかというと….

じゃんけんで負けたから….

そんなこんなで大学生活も終盤、周りは就活を始める時期となります。

しかし、将来やりたいことが見つけられていませんでした。見つからなかったというより、見つけようとしなかったという方が正しいかもしれないですね。

当時の自分は、音楽に没頭し、客観的に自分を見れていなかったのかもしれません。ただ、あの時の経験できたことは生きているし、後悔はないです。

詰まるところ、あまり就職活動はしてません。

そして在学中から活動しているバンド活動を続けていくこととなったんですが、数年で活動停止となりました。

それが24歳の頃です。

それを機に一旦、自分の将来について考え始めるようになります。

なんと人生初の就活は意外にもすぐに決まるのです。

社会人になる

「自分に得意なのはコミュニケーションだ」…頭がよくないやつの典型的な発想により、営業職として2,3社応募して、2社目で内定をもらいました。

全国転勤ありの営業、今思うと若いってすごいな、と思います。今だったら転勤なんて絶対したくない。

そして有り余るエネルギーを使って、名古屋に配属。東海地方で統計ソフトの営業に勤しむ日々を過ごします。

半年後に転勤を言い渡され今度は広島に。

広島といっても担当地域は四国中国地方だったので、よく愛媛やら、山口やら岡山に出張はざらにありました。

仕事は大変だったし、疲れるんですけど、宿泊を楽天カードで予約してたこともあり、ポイント貯まり放題だったし、地方の美味しい料理が食べられたのは幸せでした。

その半年後、またまた転勤で名古屋に戻ることになります。

仕事を辞め、職業訓練でプログラミングを学ぶ

勤めて約2年半ほどが経ったあたりで会社を辞めます。そして自分の将来について真剣に考え始めるようになる。

何が自分にとって楽しいのか、将来どうなりたいのか、1ヶ月くらい今後の人生プランについて考えました。

そして仕事を探す中で、小さい頃からパソコンが好きという安易な考えからプログラミングの仕事について興味を持ち始め、次第にプログラマーへ転職したいと思うようになるのです。

どうしたら未経験でエンジニアになれるのか考えていたそんな時に、職業訓練でAndroid Javaアプリプログラミングコースの存在を知りました。

「これ、やってみよう」そう思ってすぐに応募申し込み。なんとか合格して3ヶ月間訓練を受けられることになります。

ちなみに職業訓練を受講するには書類選考、面接もあったりなかったりだけど、普通にしていればだいたい受かるのでレベルは低いと思われます。

最初の1ヶ月はJavaの基礎を「やさしいJava」を使いオブジェクト指向とは何かから学びました。講師の先生は65歳ぐらいの現役を退いたおじさんだったが、とてもわかりやすくて’最初’は良かったです。

次の2ヶ月目はAndroidの基礎を「やさしいAndroid」を使い、Android Studioを使いながらアプリの作り方を学びました。この辺りから先生にもわからないことが増え、次第に質問しなくなり、「分からないことはググれ」という暗黙の了解が生徒の中で広まるようになりました。

知識ゼロの集団がググってもわからないことはしょっちゅう。

それでも誰も教えてくれないので、意地でもググるという日々が続きます。

今思うと、本当にこれは必要な能力だったし、就職しても結局、わからないことはググるのは共通してたので、職業訓練でまさにこの調べるというスキルを訓練できたことは貴重でしたね。

そして最後の1ヶ月で個人アプリの開発を各自進めて最後に発表しました。

その後、未経験から採用してもらえる企業に数社応募し、なんと2社内定をもらうことができたのです。

未経験ではあるものの、職業訓練でプログラミングを学んだということは評価してくれていたようです。

中にはGitやGithubのレポジトリがないと話にならないという態度を取る企業もいくつかありました。それでもなりたい気持ちが強いのであれば、採用してくれる会社なんていくらでもあることも学びましたね。

つまり大事なのはポテンシャル。

未経験からエンジニアデビュー

26歳の3月、念願のエンジニアとして仕事に就くことができました。

この会社では、未経験の場合は、3ヶ月研修を受けさせてくれたので、その後のOJTもそこまで苦戦することはありませんでした。

職業訓練でAndroidを学んでいたこともありJavaの研修をさせてもらいました。まぁ正直なところ、研修と言ってもほぼ自習です。

マニュアルは参考書、読みながら環境を構築し、レッスンごとにコードを試し、わからなければググる。

この繰り返しを約2ヶ月、残りの1ヶ月で発表課題の開発。

あれ、職業訓練に似てる。

つまり職業訓練3ヶ月 + 研修3ヶ月の期間Javaを学ぶことができたんですね。

未経験でこれだけ期間をもらって知識をつけられたのはとてもありがたかったです。

そんなこんなで無事発表も終わり、いざいざ配属となったのはなんとiOSアプリ開発。Objective-Cでした。

こんなことってあるんだと思いながらもObjective-Cを覚えながら、タスクをこなしていきました。序盤苦戦したのが、やっぱりgitのバージョン管理と、Objective-Cの構文の書き方とMRC(メモリ管理)ですかね。

それでもなんとか覚えて、一応基本的な操作や仕組みやらは把握することができました。

そしてswift案件をこなしたり、Autolayout覚えたり…プロビジョニングファイル差し替えたり、今では一通りの実装はできるようになり、気付いた頃にはiOSアプリエンジニアになっていました。

フリーランスへの転向

入社し3年が経とうとしていたころ、僕は体調を崩しました。

過労によるところと精神的にきつかったみたい。終電に帰って、土日も休まる気がせず、気がついたら仕事をしていたような毎日が続いていたが、かといって給料も高いわけではなかった。

今思えば、非効率、コスパが悪いことは明白なんですが、当時は、仕事に追われていて盲目だったのです。

体調を崩した時、色々考えました。このまま続けるのか、辞めるのか、その場合この先どうするか….?

年齢ももうすぐ30歳…

そんな時にフリーランスという働き方があることを知りました。